「愛知県公立高校_推薦入試_三分間自己PR文編選集」

「愛知県公立高校_推薦入試_三分間自己PR文編選集」

◆旧入試制度では、
◇愛知県公立高校の「推薦入試」は「面接試験」のみでした。
◇15分程度の「個人面接」です。
◇「推薦入試」では「ことばによる自己表現」として「三分間自己PR」が課せられていました。
◇字数にすると900字程度です。 
◇「作文・小論文の文例集のすべて」は下のボタンをクリックしてご覧になってください。


愛知県公立高校_推薦入試_三分間自己PR文編選集
◆2009年度/TH高等学校
 中学校ではバスケットボール部に所属していました。
 県大会出場を合言葉に、チーム一丸となって臨んだ中学最後の夏。県大会出場への切符は三枚でした。東三大会で二つ勝った私たちは、三枚の切符を四校で争う舞台まで駒を進めました。準決勝での対戦相手は豊橋南部中学でした。市内大会の決勝戦で惨敗した相手でした。公式戦ではまだ一度も勝ち星をあげていない相手でした。気後れすることなく臨んだ試合でしたが、接戦を制したのは相手校でした。ついに私たちは崖っぷちに立たされました。万を持して臨んだ豊橋東部中学との三位決定戦では終始リードしていたものの、試合終了三分前に逆転され、刻々と過ぎ去る時間を尻目にボールが手につきませんでした。そして、その点差を埋めることはついにできませんでした。試合終了後には悔し涙に暮れました。脱力感で一杯でした。県大会の晴れ舞台で存分にプレーし、実力を試すことを楽しみにしていた夏でしたが、後一歩のところで手が届かずに、勝負の世界の厳しさを改めて思い知らされた、最後の夏でした。
 三年生の私たち一三人は、中学校に入学して始めて本格的にバスケットボールを手にした初心者ばかりの集まりでした。冬に行われた一年生大会では市内で一つ勝つのがやっとのチームでしたが、放課後の部活動に加え、週二回の北部クラブでの練習や休日に組まれた練習試合をこなすうちに次第に力もつき、勝つ喜びを知るようになってきました。「チームのまとまりの良さが、今年のチームの強さの原因だね」と言った先輩の言葉が今も私の耳に残っています。
 私は多くの感動や喜びとともにたくさんの悔しさや辛さも味わってきました。今にして思えば、どれもこれもがバスケットボールを三年間続けてきたからこそ味わうことのできた貴重な体験でした。このようなかけがえのないたくさんの経験をさせて下さった顧問の先生やコーチの方々をはじめ、お世話になった多くの方々に深く感謝しています。また、練習に、試合へと、いつも気持ちよく送り出してくれた両親にも感謝の気持ちでいっぱいです。
今の私の夢は、憧れTH高校のユニフォームを身につけ、中学で手の届かなかった県大会で存分にプレーすることです。

◆2007年度/TS高等学校
 中学校時代、私が最も熱中したことは和太鼓の演奏です。
 私が和太鼓の演奏をはじめて耳にしたのは、H 中学校の入学式でのことでした。体育館中に鳴り響く和太鼓の力強い演奏に圧倒されました。その後、音楽部に入部し、実際に和太鼓に触れ、その魅力に取りつかれた私は、中学校二・三年生の選択授業では迷うことなく和太鼓を選択し、“かわきた健児太鼓”の一員として二年間活動してきました。体中を使って表現する和太鼓の演奏が好きです。また、演奏中の緊張感がとても好きです。そして何よりも、無心で太鼓を叩き終わった後の充実感や、演奏後にもったいないくらいの大きな拍手をいただいたときの喜びは何ものにもかえられません。
 “かわきた健児太鼓”のメンバーとして和太鼓を通して、神社の祭礼での演奏や地区市民館での演奏、また、校区の納涼祭りや市制施行百周年記念式典での演奏などさまざまなボランティア活動に参加させて頂く機会にも恵まれ、貴重な経験をさせていただきました。
 H 出身で、TS 高校ご卒業の、世界的に有名な喜多郎さんの夏のコンサートへ向けての練習はおよそ半年前からはじめられました。二校の高校と中学校三校が参加した、休日を利用しての合同練習は真剣そのものでした。高校の太鼓部の方たちの演奏は、技術面・力強さ・迫力など、どれをとってみても私たち中学生の演奏とは比べものにならず、高校生の方たちの演奏に少しでも近づきたいという一心で、学校の休み時間や、放課後、また帰宅後に自宅でと、少しの時間も惜しみ練習しました。そして、コンサートの当日、そんな懸命な努力が実って無事大役を果たすことができた時には、今までにない感動を覚えました。
 “かわきた健児太鼓”での活動を通して、努力することの大切さや物事に真剣に取り組むことの大切さを学びました。高校生活でもこれらの貴重な体験を生かして頑張りたいと思っています。また、高校入学後もさまざまなボランティア活動に積極的に参加したいと思っています。

◆2007年度 / TH高等学校 /「一分間自己PR」
 私は"かわきた健児太鼓"のメンバーとして二年間活動してきました。中学校三年生の時には豊橋市の市制施行百周年と重なるという幸運にも恵まれ、シンセサイザー奏者の喜多郎さんのコンサートや「市制施行百周年記念式典」に参加させて頂くなど、和太鼓を通してたくさんの貴重な経験をさせて頂きました。。七千人もの人たちが見つめる中、喜多郎さんと共演し、無事にコンサートのフィナーレを飾ることができたときには、今までに味わったことのない感動を覚えました。喜多郎さんと共演できた中学最後の夏は、私の中学校時代のかけがえのない最高の思い出になっています。

◆2006年度/TK高等学校
 私のサッカー歴は五歳のときから始まります。幼稚園のときにはせみがわスクールに通っていました。小学校の六年間はリトルJセレソン豊橋にお世話になっていました。小学校五年生のときにはNHK杯の決勝戦で二点を決め、最優秀選手賞をいただきました。中学入学後は、FC豊橋デューミランに所属し、トップ下として活躍しました。華麗なドリブルと早いパスワークでのゲームの組み立てが得意です。
 U-15の東三大会の準決勝戦でのこと。対ラランジャ豊川戦での後半。絶妙なパスを受けた私は、芸術的ともいえるドリブルで一人中に切り込み、ゴールキーパーが前に飛び出したのを見るや、すかさずループシュートを放ちました。狙いすまして放ったサッカーボールはゴールキーパの頭上を綺麗な弧を描いて、ゴールの真ん中に吸い込まれるようにしてネットを揺らしました。この対ラランジャ豊川戦での決勝点が、特に私の印象に残っています。
 FC豊橋デューミランではたくさんのすばらしい友人に恵まれ、夏休みや冬休み中に行われた大阪府や長野県、また静岡県への遠征合宿では、他地域の選手たちとの交流を通して見聞を広めることもできました。サッカー以外の面でも貴重な体験をさせて頂いたFC豊橋デューミランの監督さんやコーチの方々をはじめ、お世話になった多くの方々に深く感謝しています。また、FC豊橋デューミランの練習に毎回気持ちよく送り出してくれた両親にも感謝の気持ちでいっぱいです。
 貴校入学後もサッカー部に入部したいと思っています。勉強と部活動との両立を心がけ、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、三年間頑張り通し、完全燃焼したいと思っています。夢は高校のサッカー選手のあこがれの地、東京・国立競技場のピッチでプレーすることです。

◆2005年度/J高等学校/Nさん作
豊橋市立H中学校のNです。私の夢は、体育の先生になることです。私がスポーツから学んだ事を皆に教えたいと思っています。
私は小さい頃からスポーツが大好きです。小学校時代は陸上をがんばり、マラソンは6年間校内1位でした。
北部中学校ではバスケットボール部に所属し、東三大会で優勝し、目標だった県大会に出場し、プレーすることができました。この経験は中学3年間で、とても素晴らしい想い出と自信になりました。私は中学からバスケットボールを始めたので、最初の頃はスタメンでプレーできませんでした。バスケットボールはチームの中で自分が何をすべきか、どこに動けばいいのか、瞬時に頭で考えながらプレーします。イメージ通り自然に体が動くまで練習と実践を積み重ねました。努力の結果、スタメンを勝ち取り、試合で活躍できるようになり、優秀選手に選ばれたこともあります。スポーツを通してかけがえのない友人を得ることもできました。仲間を信頼し、自分の力を信じ、プレーできるようになりました。ものごとに集中する力も身につきました。そして『努力しつづければ必ず結果がでる』ということを学びました。これはスポーツだけでなく勉強も一緒だと思っています。
私は普段から新聞をよく読むようにしています。きっかけは中日新聞主催の『新聞切り抜きコンクール』で愛知県大賞を受賞したことです。新聞には、私たちの知らないところで起きた、さまざまな出来事が書かれています。自分で疑問に思うことをテーマに選び、いろいろな角度から内容を調べ、わかりやすくまとめることで、理解できるようになります。私たちが社会の出来事に関心を持つことはとても大切なことだと思います。このように、私は中学生活で多くのことを学び、先生や家族や友人たちに支えられ、成長することができたと思っています。
J高校の『文武両道』な校風と、『みずから考え、自ら成す』精神は自分にあっています。県下でもトップレベルのJ高校で、自分の可能性を信じ、勉強もスポーツも勇気をもって挑戦し、体育の先生になるという大きな夢に一歩ずつ近づけるよう、努力をします。よろしくお願いします。

◆2006年度/Y高等学校
 中学校ではバスケットボール部に所属していました。一年生大会の一回戦では二対六十八という惨めなスコアで大敗しました。一試合で二得点ということは、試合中にわずか一本しかシュートを決められなかったということです。一年生大会で味わったあの悔しさや惨めさは今でも忘れられません。練習不足だけを痛感させられた試合でした。
 その後、私は放課後の部活動や週三回のクラブチームの練習に、そして自らに課した自主練習にと、積極的に練習に取り組むようになりました。
 二年生になってそんな私の意欲的な練習への取り組みが認められ、キャプテンに選ばれました。チーム内の人間関係で、一人頭を抱え悩んだこともありました。監督にきつく叱られ、くじけそうになった時期もありましたが、メンバーの協力のもとさまざまな困難を乗り越え、三年生の春季・市内大会では三位入賞を果たし、念願の東三大会に出場できるまでのチームに成長しました。
 また、三年連続・東三大会出場というプレッシャーの下に臨んだ最後の夏の大会でも、東三大会に出場することができました。
 部活動での貴重な体験を通して私は、対人関係の難しさとともにすばらしさ、努力はいつかは報われること、失敗してもあきらめることなく挑戦することの大切さなど多くのことを学ばせて頂きました。
 部活動を引退した夏以降、私は学校行事にも積極的に参加するようになりました。
 北中祭では、総合的な学習で取り組んだオーストラリアについて全校生徒の前で発表しました。修学旅行でオーストラリア大使館を訪れた際にうかがったお話やその時に頂いた資料などをパワーポイントを使ってまとめました。特に、私は大規模な森林の伐採によって絶滅の危機に瀕している野生動物に関する寸劇作りに多くの時間を費やしました。準備をするのは大変でしたが、発表の後の大きな拍手やともに頑張ってきた仲間たちの笑顔を前に、それまでの苦労は一気に消え去ってしまいました。
 今、私は級長をしています。中学最後の思い出に、クラスでもぜひ輪の中心になって活動したいとの思いにかられ、苦労は覚悟の上で思い切って級長に立候補しました。卒業式まで残りわずかになった毎日を気持ちよく過ごすことができるように気を配っています。
 中学生時代にさせて頂いたたくさんの貴重な経験を今後の生活に生かし、常に向上心を持って有意義な高校生活を送りたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

◆2008年度/Y高等学校/生活文化科
 中学校ではバレー部に所属していました。アタッカーとして二年生から試合に出場していましたが、平日の厳しい練習に加え、休日に組まれる練習試合と一日練習という一年に数日しか休日のないバレー漬けの毎日の中で、膝の痛みと腰痛に悩まされ、三年生の時にはセッターに変わることを余儀なくされました。体力のなかった一年生の時には放課後の練習で疲れ果て、帰宅後には宿題を早々にかたづけ、翌日の練習に備えて寝るだけのバレー中心の生活を送り、成績があれよあれよと言う間に下がってしまい、家族にはずいぶんと心配をかけましたが、体力も次第につき始め、また、短時間に集中して勉強することを覚えた二年生からは、勉強と部活動を両立することができるようになりました。
 北中祭の文化の部では、総合的な学習で取り組んだ心臓の外科手術について全校生徒の前で発表しました。修学旅行の企業訪問で東大病院を訪れた際に、心臓外科医の先生に直接うかがった高度先進医療に関する貴重なお話やその時に頂いた資料などをパワーポイントを使ってまとめ、当日には寸劇も交え、プロジェクターを使って発表しました。夏休み中には何日も登校し、準備をするのは大変でしたが、発表後にもらった大きな拍手やともに頑張ってきた仲間たちの笑顔を見た時には、それまでの苦労は一気に消え去ってしまいました。
 体験入学の際には普通科のお話をうかがいましたが、美術や家庭科での創作が好きで、また、高校時代から家庭一般の専門分野を学びたいという思いから生活文化科への進学を希望するようになりました。
 入学後は、一・二年次では、家庭一般に関する幅広い知識と技能を身につけ、3年次からは、生活教養コースに進み、より専門的な技術や資格の取得を目指したいと思っています。また、学校行事にも積極的に参加し、先生方や多くの友人たちと交流を深め、有意義な高校生活を送りたいと思っています。
 将来の夢は大学に進学し、保育士になることです。乳幼児の教育を通して優秀な保育士として社会に貢献したいと思っています。

■2010年度/TS高等学校
中学校ではバレー部に所属していました。
 二年生になって私の意欲的な練習への取り組みが評価され、副キャプテンに選ばれました。副キャプテンと言えば聞こえはいいのですが、実際には人一倍統率力のあるキャプテン一人に全てを任せっきりで、副キャプテンらしいことはこれと言って何もしていませんでした。
 しかし、二年生も終わろうとする頃、突然キャプテンが練習中に怪我をし、また同級生のレギュラー陣二人も同時期に相次いで怪我をして、部活動に参加できなくなってしまいました。春休みには公式戦こそなかったものの練習試合が数多く組まれていて、相次いで怪我をした三人の穴は、まだコート練習を満足にしたことのない一年生三人で急きょ埋め合わされました。
 優柔不断な私が一人でチームを引っ張っていけるはずもなく、同級生の他の二人に協力を求めましたが、キャプテンが抜けた穴は想像以上に大きく、チームの雰囲気がガラリと変わってしまいました。私たち三人は戸惑いながら、迷いながらも、元のような明るく活気のあるチームにしようと大きな声を張り上げ喉をからしましたが、なかなか思うようにはいかず、自分自身が歯がゆくって、情けなくって泣きそうな気分でした。
 一月余りが過ぎキャプテンが復活し、他のレギュラー陣二人もコートに戻ってきた時には、ほっとしました。六人そろって練習試合に臨んだ時には六人そろってプレーすることに感動さえしました。
 自分で言うのもおかしな話ですが、一月余りにわたって曲がりなりにもキャプテンの代役を務めた私は、臆することなく何人かの輪の中心となって動くことを覚え、精神的にも少しは強くなったような気がしています。
 高校入学後も引き続きバレー部に入部したいと思っています。勉強と部活動を両立させ、充実した有意義な高校生活を、私の憧れの的である、百年を越す歴史と伝統、また実績のあるTS高校で過ごしたいと思っています。
私は多くの感動や喜びとともにたくさんの悔しさや辛さを味わってきました。今にして思えば、どれもこれもがバスケットボールを三年間続けてきたからこそ味わうことのできた貴重な体験でした。このようなかけがえのないたくさんの経験をさせて下さった顧問の先生やコーチの方々をはじめ、お世話になった多くの方々に深く感謝しています。また、練習に、試合へと、いつも気持ちよく送り出してくれた両親にも感謝の気持ちでいっぱいです。
今の私の夢は、憧れのTS高校のユニフォームを身につけ、中学で手の届かなかった県大会で存分にプレーすることです。

■2005年度/Y高等学校/生活文化科
私が和太鼓の演奏を初めて耳にしたのは、H中学校の入学式でのことでした。体育館中にこだまする和太鼓の力強い音に私の体が共鳴し、まるで私のお腹が太鼓になって鳴り響いているかのような心地よさを覚えました。
中学校2年生と3年生の選択授業では音楽を選択し“かわきた健児太鼓”のメンバーとして和太鼓の練習をしてきました。
体中を使って表現する和太鼓の演奏が好きです。演奏中の緊張感が好きです。そして、無心で太鼓をたたき終わった後の充実感は何ものにもかえられません。校区内にある老人ホームでの演奏の後や神社の祭礼での演奏の後に、もったいないくらいの大きな拍手を頂いた時の喜びはひとしおです。
中学校最後の合唱コンクールにはH中学校の先輩の喜多郎さんが来られ、私たちは和太鼓の演奏を披露しました。その後、短い時間でしたが直接指導を受ける機会にも恵まれ、貴重な経験をしました。その際、私たちの一生懸命さだけはどうやら伝わったようで、最後に励ましのことばを頂きました。私は、喜多郎さんから、ちゃっかりと握手とサインをして頂くことに成功し、友達たちからはたいそううらやましがられました。
中学2年生の時には“炎の祭典”参加し、Y高校の和太鼓部の皆さんの力強い迫力のある演奏を聴き感動しました。入学後は和太鼓部に入部して伝統的な郷土芸能の継承と技術の研鑽に努めたいと思っています。
中学校時代はバレー部に入っていました。そして、1年生の新人戦からアタッカーをしていました。中学校1・2年生の時は見事に勝てない試合の連続で、連敗街道をひた走りましたが、3年生になると、毎日の練習の成果が少しずつ出始め、次第に勝てるようになり、勝つ喜びを知るようになりました。そして、最後の夏の東三大会ではベスト32に残れるまでのチームになりました。Y高校のバレー部に入部して自分の力を試してみたいという気持ちもないわけではありませんし、またバレーの練習と全く縁を切ることに少しの未練もないわけではありませんが、今は和太鼓部の活動の方に私の興味は傾いています。 
中学3年生の9月には名古屋で行われた“高円宮杯英語スピーチコンテスト”に学校代表として出場し、優秀賞を頂きました。日本語での作文に始まり、英訳、発音・発声練習と夏休み中に登校する日も多く、大変な思いもしましたが、今ではいい思い出になっています。50年前に移民としてブラジルに渡った祖父の兄弟のことについて話したのですが、それまであまり知らなかった祖父の兄弟の苦労を改めて家族から聞く機会が持てたことも、私にとっては有意義な時間でした。スピーチコンテストへの参加は、LL教室に小学校5年生の時から週一回通い続けた私なりの一つの成果だと思っています。
Y高校・生活文化科入学後は、1・2年次では、家庭一般に関する幅広い知識と技能を身につけ、3年次からは、生活教養コースに進み、より専門的な技術や資格の取得を目指したいと思っています。また、学校行事にも積極的に参加し、先生方や多くの友人たちとの交流を深め、感動を分かち合いたいと思っています。
将来の夢は大学に進学し、保育士になることです。乳幼児の教育を通して立派な保育士として社会に貢献したいと思っています。
長所は、他人(ひと)に優しく、明るくユーモアがあり、責任感・正義感が強く、努力家なところです。短所は、少し神経質な面があり、心配性なところです。趣味は、映画鑑賞です。特技は、料理作りです。
歴史と伝統、また実績のあるY高等学校で学ぶことに少しの不安もないと言えば嘘になりますが、勉強と部活動の両立を心がけ、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

◆2007年度/TM高等学校/生活デザイン科
 中学校ではソフトテニス部でキャプテンをしていました。試合にはダブルスの前衛として出場し、スマッシュを得意としていました。中学校二年生の夏、「炎の祭典」の時に行われた大会で、団体戦で三位の成績を修めました。キャプテンとしては、特にチーム内の雰囲気づくりに気を配りました。チーム内の人間関係で一人頭を抱え悩んだ時期もありましたが、キャプテンの辛さと同時に、キャプテンならではの喜びを感じたことも数多くありました。テニスを通して得たたくさんの友人や多くの貴重な体験は、私の中学校時代の大切な宝物です。
 TM高校入学後もひき続きテニス部に入部したいと思っています。中学時代には思うような成績を残せずに悔しい思いをしましたが、その悔しさをばねに、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、少しでも良い成績が残せるように努力したいと思っています。
 家庭では幼い頃から家族の誕生日やクリスマスの日など機会があるごとに、母がお菓子やケーキを焼いてくれました。そんな母の影響もあって、小学校の六年生になると私も友達の誕生日やクリスマスの日に手作りのお菓子やケーキをプレゼントとして贈るようになりました。チーズケーキに始まり、友達のリクエストに答えてパンプキンパイやストロベリー・タルトなど、友達の喜ぶ顔を見たい一心で、次第に手の込んだものに挑戦するようになりました。それが、私がパティシエになりたいという思いを抱き始めたきっかけです。
 TM高校入学後は一年次には、家庭科一般に関する基本的な知識と技術を身につけ、二年次からは、フードデザインコースに進み、食物に関する専門的な知識と技術を学びたいと思っています。また在学中にできる限り多くの資格を取得したいと思っています。卒業後は専門学校に進学し、将来は優秀なパティシエとして、社会に貢献したいと思っています。
 歴史と伝統、また実績のあるTM高校で学ぶことに少しの不安もないと言えば嘘になりますが、勉強と部活動の両立を心がけ、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

■2009年度/TH高等学校
僕は三歳の時からスイミングスクールに通っていました。幼少の頃の記憶はあいまいですが、とにかく泳ぐことが好きで、週に一回のスイミングスクールのある日が待ち遠しくてたまりませんでした。
中学校では迷うことなく水泳部に入部しました。入部して間もなく、水温が十八度になると始められたプールでの本格的な練習に初めて参加したときには、あまりの水の冷たさに震え上がってしまいました。幼少の頃から水に親しみ、自分なりに鍛えてきたという自負も、あまりの寒さを前に一気にしぼんでしまったことを今懐かしく思い出します。
 中学二年生の時に行われた新人戦では、一〇〇メートル背泳ぎに出場し準優勝しました。背泳ぎという種目は、相手との駆け引きのない特種な競技です。僕はレースの後半、瞬きも忘れるほどがむしゃらにゴールだけを目指し、そして、朦朧とする意識のなかゴールに突っ込みました。
 これに気をよくした僕は、なりふり構わず、ただひたすらに、ただがむしゃらに、という時期をしばらく過ごしましたが、そこには自ずと限界があり、理にかなった泳ぎとは、合理的な練習とは、と常に考えるようになりました。この考え方は水泳に限らず、勉強へ生活一般へと次第に広がっていきました。
 中学最後の夏、市内大会の一〇〇メートル背泳ぎでベストタイムが出せず四位に終わり、その悔しさをバネに一〇〇メートル自由形で県大会に出場することを目標に練習に励み、県大会に出場することができました。しかし、帰路についた僕の足取りは重いものでした。優秀な選手たちの泳ぎを目の当たりにし、新たな目標を掲げた夏。決意を固めた夏でもありました。
 高校入学後も引き続き水泳部に入部したいと思っています。部活動と勉強の両立を心がけ、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、自己ベストの更新と県大会での上位入賞を目指して、完全燃焼したいと思っています。また、入学後は学校行事にも積極的に参加し、先生方や多くの友人たちとの交流を深め、有意義な高校生活を送りたいと思っています。
将来の夢は大学卒業後・医療関係の職業に就くことです。そして、貴校の卒業生として、名に恥じない、立派な社会人として社会の一隅を確かに照らしたいと思っています。
以上です。

◆2010年度/TS高等学校
うだるような暑さの体育館の中で、バレーボールの基礎練習に明け暮れた中二の夏休み。どうしてここまで基礎練習ばかりにこだわり、基礎練習ばかりしなければならないのか、その時の私には監督さんの意図することが全く理解できませんでした。今日もまた昨日と同じ基礎練習の繰り返しか、と思うと部活動へ向かう私の足取りは日を追うごとに重くなっていきました。しかし、季節が夏から秋に変わりチーム練習が始まると、私たちのチームは技術面ばかりでなく精神的にも確実に強くなっていることが解かりました。基礎練習の大切さや毎日の小さな努力の積み重ねがやがては大きな力になることを身をもって学んだ中二の夏でした。
 背の低い私に与えられたポジションはリベロでした。ひたすらボールを追いかけボールを拾うポジションです。これはとても取れそうもないな、と思うボールにも諦めずに全身で飛びついていく練習を続けているうちに、不思議なことに今まで手の届かなかったボールに手が触れられるようになり、やがてうまくレシーブができるようになりました。私はこのようにして守備範囲を少しずつ広げてきました。ここでもまた諦めずに努力することの大切さや「継続は力なり」ということを実感しました。
 私の最も印象に残っている試合は中学最後の夏の東三大会で、県大会の出場をかけて対戦した牟呂中学との試合です。一対一で迎えた最終セットで、私たちのチームは立ち上がり立て続けに八点の差をつけらてしまいましたが、不思議なことに負ける気は全くしませんでした。チーム内にも諦めムードは全くなく、五人のメンバーの顔を見渡すと試合に集中したとても美しい顔をしていました。あの時私たちのチームは完全に一つにまとまっていました。私はこれならば必ず勝てる、逆転できると思いました。そして二五対二一でからくも最終セットをものにし、念願の県大会出場の切符を手にしました。あの時のメンバーの一人ひとりの美しい顔は今でも忘れられません。私の最も印象に残っている最高の試合でした。
 高校入学後も引き続きバレーボール部に入部したいと思っています。あこがれのTS高校のユニフォームを着てバレーコートに立ち、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、完全燃焼したいと思っています。

◆2008年度/Y高等学校
 中学校ではソフトテニス部に所属していました。先輩とペアを組み、一年生の時から試合に出場していました。初めて臨んだ大会では、何もすることができないままに大敗を喫し、先輩には本当に申し訳なくって。悔しくって、悲しくって。不甲斐なくって。敗者の惨めさをたっぷりと味あわされました。
 この惨敗を期に、平日の部活動に加え、休日には市営コートで父と二人での練習を始めました。ソフトテニスの選手としてインターハイに出場した経験のある父のアドバイスは、厳しくも的確なものでした。しだいに力をつけていく自分を感じていました。三年生の春の市内大会では、念願の個人優勝を果たし県大会に駒を進めましたが、その実力差は歴然としており、?回戦で敗退しました。力不足だけを痛感させられた試合でした。
 厳しい練習を積んで、万全を期して臨んだ最後の夏。市内大会では接戦を制して優勝しました。しかし、第一シード、優勝候補の筆頭に挙げられ、極度の緊張の中で迎えた東三大会の初戦。あれよあれよという間に得点差をつけられ、はやる気持ちとは裏腹に体は空回りするばかりでした。結局最後の最後まで試合の流れを変えることはできませんでした。県大会の舞台で、存分にプレーし、実力を試すことを楽しみにしていた夏。思わぬところでつまずき、勝負の世界の厳しさを改めて思い知らされた、最後の夏でした。
 中学校での部活動とは別に、小学校一年生の時から豊橋陸上クラブに所属していました。小学校六年生の時に全国大会に出場しベスト16の成績を残せたことは、その後の私の心の大きな支えになっています。陸上を通して、またソフトテニスを通してたくさんの貴重な体験をさせて頂いた監督の先生をはじめコーチの先生方やお世話になった多くの方々には深く感謝しています。また、スポーツを通して得られたすばらしい友人たちや練習に毎回気持ちよく送り出してくれた両親にも感謝の気持ちでいっぱいです。
 高校入学後は、このままソフトテニスを続けるのか、陸上に、あるいは硬式テニスにと、今の私の心は揺れていますが、どの運動部で活動するにせよ、常に向上心を持って毎日の練習に取り組み、努力だけは決して惜しまないつもりです。勉強と部活動の両立を心がけ、学校行事にも積極的に参加することで、先生方や多くの友人たちとの交流を深め、有意義な高校生活を送りたいと思っていますので、よろしくお願いいたします

◆2012年度/TN高等学校
私は「かわきた健児太鼓」の一員として三年間活動してきました。体中を使って表現する和太鼓の演奏が好きです。また、演奏中の緊張感がとても好きです。そして何よりも、無心で和太鼓を叩き終わった後の充実感や、演奏の後に、もったいないくらいの大きな拍手を頂いたときの喜びは何ものにもかえられません。
 私は「かわきた健児太鼓」のメンバーとして、校区の成人式や敬老会での演奏、納涼祭りや神社の祭礼での演奏などさまざまな地域活動に参加してきました。
中学校の三年生になったばかりの頃、火・水・土の三つのパートからなる『命』という題名の曲を作曲するように顧問の先生から言われました。東日本大震災があり命の尊さについて考えている時期でした。私は「土」のパートの作曲に携わりました。命の源である土の豊かさを表現するのにとても苦労しました。完成するまでに三ヶ月かかりました。そして、八月に公会堂で行われた「ええじゃないかフェスティバル」で披露しました。演奏後には「中学生が作曲したとはとても思えないすばらしい作品ですね」との講評を頂き、苦労が報われた気がしました。この曲は後輩が代々受け継いでいってくれることになっています。
 また、私は校区内にある老人福祉施設に職場体験やボランティア活動で行きました。お年寄りの方々との会話や食事の介助、またクリスマスイブの日には、ビンゴゲームなどをして楽しみました。少子高齢社会を生きる私たちにとって避けて通ることのできない老人福祉の一端に触れることができました。
 私はさまざまな地域活動を通して、たくさんの貴重な体験をさせて頂きました。高校生活でもこれらの貴重な体験を生かし、充実した高校生活を送りたいと思っています。また、高校入学後もさまざまな地域活動やボランティア活動に積極的に参加し、有意義な高校生活を送りたいと思っています。
私は来年度創立三十周年を迎える豊橋西高等学校とともに、力強い新たな一歩を踏み出したいと思っています。

◆2008年度/Y高等学校
  僕は中学校二年生の後期に生徒会長を、また、三年生の前期には生徒会役員をしていました。生徒会活動の最も大きな行事は九月に行われる「北中祭」です。北中祭の準備は夏休み前から始まりました。テーマづくりから始めて、企画・立案、参加者の募集とその後のオーディション、参加者との念入りな打ち合わせ、という過程を経る北中祭の準備のために夏休み中も多くの時間を学校で過ごしました。
 最も苦労したことは、開催式で北中祭の文化の部の見どころをプロジェクターを使って紹介するための資料作りでした。それぞれの紹介文とともに、出場者の顔写真や練習風景をパワーポイントを使って見栄えよくレイアウトするという、慣れないパソコン上での作業には予想以上に多くの時間がかかりました。
 また、北中祭の当日には司会・進行を任され、ステージとステージの幕間の時間を埋めるのに四苦八苦しました。前のステージで演じられた出し物について、ユーモアを交えて寸評を加えなければならず、顔こそ笑っていたものの冷や汗のかき通しでした。こればかりは予め準備することができず、その時その場に臨んで即興でコメントを加なければなりませんでしたので、手に汗を握りながらの司会進行は体にとっていい筈もなく、僕のデリケートな体は敏感にも直ちに反応し、北中祭の前後には神経性の下痢に悩まされました。
 八方塞がりの状況に陥り、投げ出して逃げ出したくなるような状況に追い込まれたり、人間関係の難しさに一人頭を抱えたりと、生徒会役員の任期中は、相応の苦労を常に抱えいましたが、たくさんの仲間たちの協力を得て、それぞれの行事を終えた後の達成感や充実感は何物にも代え難く、それまでの苦労は一気に吹き飛んでしまいました。また、その感動が次の行事への活力になりました。
 学校行事のほかにも役員時代には「市長さんと語ろう会」や「生徒会活動研修会」、「青少年赤十字」主催の「リーダーシップ・トレーニング・センター」などにも参加させて頂く機会に恵まれ、他校の中学生の子たちとの交流を通して見聞を広めることもできました。生徒会活動を通してさせて頂いた数々の貴重な経験を高校生活に生かし、有意義な高校生活を送りたい思っていますので、よろしくお願いいたします。

◆2006年度/TS高等学校
小学校へ入学すると同時にそろばんを習い始めました。今振り返ると、習い始めの頃はそろばんへの興味というよりも、そろばん教室でくれるお菓子欲しさに通っていたような気がします。
 小学校三年生の春、大分県佐伯市から豊橋市に転校してきました。佐伯市と豊橋市のそろばん教室では、掛け算・割り算の答えを立てる位置が左右逆なことに驚きや戸惑いを覚えると同時に、日本の伝統文化であるそろばんにも、お国柄があることに興味を覚えました。
 無心でそろばんと向かい合う時間が好きでした。我を忘れ集中している時間が好きでした。計算中の緊張感が好きでした。そして、何よりも、練習を重ね検定に合格した時の充実感は何ものにもかえられませんでした。小学校六年生の夏に全珠連二段の珠算検定に合格しました。二段取得後には、そろばんの先生が勧めて下さったこともあり、電卓の練習をしました。そして、中学校一年生の時、電卓検定の一級を取得しました。
 そろばんへの興味が薄れ、やめてしまおうと思ったことも何度かありましたが、何とか頑張り通せたのは「一緒に行こう」と、いつもそろばん教室に誘ってくれた友達おかげです。長年にわたって、辛抱強く丁寧に教えて下さったそろばん教室の先生やいつも気持ちよくそろばん教室に送り出してくれた両親にも感謝の気持ちでいっぱいです。
 TS高校入学後は珠算部に入部し、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、全国大会出場を目指し、新たな友達と新たな気持ちで再び珠算に取り組みたいと思っています。
 豊橋商業高校入学後は、一年次にはビジネス一般に関する基礎的な知識や技術を身につけ、二年次からは経理課に進み、簿記会計分野に関する専門的な知識と技術を学び、多くの経理事務能力を身につけ、できるだけたくさんの資格を取りたいと思っています。
 入学後は、勉強と部活動の両立を心がけ、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

◆2010年度/TS高等学校
 私は小学校四年生の時からパソコン教室に通っています。始めはキーボードで文字を打つことが楽しくてたまりませんでした。自分が打った文字を初めてプリンターで印刷してもらった時の感動は今もよく覚えています。
 初めにICTの検定を受けました。小学校四年生の私には難しいことが多く、どうして他の人にはできて自分にはできないんだろう、と悔しくて泣いたこともありましたが、あきらめずに続けることで現在ICT準二級の資格を取得するまでになりました。
 そして、小学校六年生の時に初めてP検を受験し、準四級の試験に合格しました。また、中学二年生も終わろうとする頃には四級の試験にも合格しました。
 高校は以前からTS高校と決めていました。そして、「P検三級以上を有する」ことが、TS高校の推薦基準でしたので、急きょP検三級の試験を受けることにしました。P検三級の試験日が中学最後の定期試験の翌日でしたので、定期テストの勉強とP検三級の試験の勉強を並行してやらなければなりませんでした。どうしても豊橋商業高校で学びたいという強い思いから連日深夜まで頑張りました。その結果、定期テストの成績もよくP検の三級にも合格しました。
 パソコン教室に通い資格を取る過程で、私は努力することの大切さを学びました。「継続は力なり」ということを身をもって経験しました。と同時に集中力もつき、また、物事を論理的に考えることができるようにもなりました。数学や理科の計算問題が好きになったこともパソコン教室へ通っていたからだと思っています。
 高校入学後は、一年次には商業一般について幅広い知識を身につけ二年次からは情報処理科に進み、プログラミングに関する知識と技術を学び、多くの情報処理能力を身につけ、できるだけたくさんの資格を取りたいと思っています。将来の夢は優秀なプログラマーになり、自立した女性として社会に貢献することです。

◆2004年度/K高等学校 
中学校ではサッカー部に入っていました。技術的にも未熟で体力もなかった入部したての頃、先輩たちに早く追いつきたくて、家の庭でひとりリフティングやドリブルの練習をしたことや、友達と誘い合って夜の豊川の堤防を走ったことを懐かしく思い出します。
試合には1年生の夏の大会から出場していました。試合中は積極的に声を出すことを心がけ、チームの雰囲気づくりに最も気を配りました。1年生の新人戦では市内で3位の成績を納めることができました。また、アンダー13の東三大会ではベスト8に入りました。1年生の秋、2年生の夏・秋、そして3年生の最後の夏の大会では東三大会出場を果たしましたが、納得のいく結果ではありませんでした。高校ではこの悔しさをバネに一日一日の練習を大切にして頑張りたいと思っています。
3年生最後の体育祭ではクラス対抗の長縄跳びの競技がありました。なかなかクラスがまとまらず、20回をこえることのほとんどない毎日が長く続き、級長として長繩を回していた僕はとても悩み、落ち込んでいました。が、体育祭が近づくにつれてようやくクラスにもまとまりが見え始め、クラスのみんなで相談して学級の時間を担任の先生から頂いて練習に当てたり、放課後に自主的に練習をするようになりました。
そして、いよいよ迎えた体育祭当日の本番!です。
40回という未知の回数に僕は興奮し冷静さを欠き始めました。心臓がバクバク踊りだし、長繩を回す僕の手は小刻みに震え始めました。クラスが一致団結して勝ち取った52回という未知の結果にみんなではしゃぎ回りました。努力は必ず報われるということを肌身をもって知った出来事でした。
それ以来“52”という数が僕の一番のお気に入りの数字になっています。級長としての辛さと同時に、級長ならではの喜びを味わうことができた悲喜こもごもの中学校最後の体育祭は、今でもいい思い出として残っています。
長所は、他人に優しく、明るくユーモアがあり、責任感・正義感が強く、努力家なところです。短所は、少し神経質な面があり、心配性なところです。
趣味はサッカー観戦です。特技は書道です。書道は小学校1年生の時からずっと習っています。中学2年生の夏には段の検定を終え、今は文部科学省認定毛筆書写技能検定試験、3級の資格を持っています。
歴史と伝統、また実績のあるK高校で学ぶことに少しの不安もないと言えば嘘になりますが、文武両道を心がけ、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

◆2007年度/TN高等学校
中学校二年生の後期、僕はクラスの輪の中心になって活動したいとの強い思いにかられて、苦労は覚悟の上で思い切って級長に立候補しました。八名もの立候補者がいた中で、当選した時には喜びと同時に大きな責任感も感じました。
 合唱コンクールの練習では、日を追うごとに男女の仲が悪くなっていき、練習のできない日が何日も続きました。男女の間に立たされて板ばさみになった格好の僕は一人悩み、ひどく落ち込みました。が、粘り強く何度もクラスでの話し合いを繰り返すことによって、クラスの気まずい雰囲気もやがて収まり始め、その時にはほっと胸をなで下ろしました。合唱コンクールが近づくと、ようやくクラスも一つにまとまり、クラス全員で相談して学級の時間を担任の先生から頂いて練習に当てたり、授業前や放課後に自主的に練習に取り組むようになりました。そして、合唱コンクールの当日、そんな僕たちの懸命な努力が実を結び優勝することができたときには、級長としてつらい時期を経てきただけに、喜びもひとしおでした。努力は必ず実を結ぶことを改めて実感した出来事でした。あきらめることなく粘り強く努力することの大切さを身をもって知らされた出来事でした。
全国大会出場を目の前にした東海大会の決勝戦で惜敗し、涙を呑んだ小学校最後の冬。三年間厳しい練習に耐え、念願の全国大会出場をかけて、チーム一丸となって万全を期して臨んだ総体予選。県大会の準決勝戦で、まさかの相手にまさかの逆転負けをし、涙にくれた中学校最後の夏。僕はバスケットボールを通して、多くの感動や喜びとともにたくさんの悔しさや辛さも味わってきました。今にして思えば、どれもこれもがバスケットボールを五年間続けてきたからこそ味わうことのできた貴重な体験でした。小学校で逃した全国大会。中学校でも手の届かなかった全国大会出場。今の僕の夢は、憧れのTN高校のユニフォームを身につけ小学校以来の悲願を達成し、憧れの地である東京・代々木第二体育館を舞台に存分にプレーすることです。

◆2005年度/AN高等学校
帰宅後、僕は毎日、豊川の堤防を三キロ余り走っています。体力づくりのために小学校の六年生の時から始めた毎日のジョギングは、体調のすぐれない日と雨の日以外には一日も欠かしたことがありません。護岸工事がなされ、アスファルトで舗装された一見すると味気ない道でのジョギングですが、日差しの温もりや風の音、木々の姿や四季折々の表情を見せる豊川を見ながら走るジョギングは今では僕の欠かせない日課になっています。
なかでも、時折り吹く涼風を体に感じ、刻々と色を変える夕日を見ながら走る夏の夕暮れのジョギングは最高です。
冬の木枯らしの吹き荒れる日には、呼吸がうまくできずにとても息苦しく、耳が凍傷になりそうなほど辛い思いをすることもありますが、ジョギング後の爽快感を思うと、思わずスニーカーの紐を結び、駆け出してしまします。
友達たちからは、努力家だねとか、辛抱強いねとか、とかく好奇の目で見られがちですが、僕にとって走ることは努力や忍耐の対象ではなく、走ることが楽しくて、ただ、ただ走ることを楽しんでいるだけです。
今、自宅で猫を飼っています。 ?年前、その猫に?匹の子猫が生まれました。そして、その子猫のうちの一匹が生まれて間もなく病気のために亡くなりました。今でもその子猫が静かに息を引きとっていく様子が、鮮明に脳裏に焼きついています。そのとき僕は命の尊さやはかなさについて思うと同時に、静かに息を引きとっていく子猫を前に、何もしてあげることができずに、ただ祈るような気持ちでその子猫の最期を看取ることしかできなかった自分自身の無力さを何よりも強く感じました。この出来事を機に、僕は動物の命に寄り添い、お世話をしてあげられるような職業に就きたいと思うようになりました。
中学校では情報部に入っていました。しかし、活発な活動が行われていたとはお世辞にも言えず、とても寂しい思いをしてきました。AN高等学校のホームページをインターネットで拝見させて頂き、そのすばらしさに感心しました。高校入学後はパソコン同好会に入ってパソコンについて基礎から学び、パソコンについての多くの知識と技術を身につけたいと思っています。また、入学後は学校行事にも積極的に参加し、先生方や多くの友人たちとの交流を深め、感動を分かち合いたいと思っています。
AN高等学校・動物科学科入学後は、一年生では、家畜をはじめさまざまな動物の飼養管理と畜産経営の基礎を学び、二年生からはアニマルケアコ-スに進み、愛玩動物や実験動物についてのより専門的な学習を通して、農業の基礎から先端技術まで幅広い知識と技能を身につけたいと思っています。
高校卒業後の進路はまだはっきりと決めていませんが、在学中にできるだけ多くの資格を取り、三年間専門分野を学ぶ中で、じっくりと考えて決めたいと思っています。将来の夢は、身につけた専門分野の知識と技術や技能を生かし、動物たちとの触れ合いを通して、社会に貢献することです。
長所は、他人(ひと)に優しく、誠実で、正義感・責任感が強く、努力家なところです。短所は、少し神経質な面があり、心配性なところです。趣味は、ジョギングです。
創立一00年をこえる歴史と伝統、また実績のあるAN高等学校で学ぶことに少しの不安もないと言えば嘘になりますが、勉強と部活動の両立を心がけ、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

◆2013年度/TN高等学校
 私の野球歴は六歳の時から始まります。小学校一年生の春、当時コーチをしていた父に誘われて牛川パイレーツというクラブチームに入りました。牛川パイレーツ時代にはなかなか勝つことができずに、悔しい思いをしたことばかりが記憶に残っています。
 中学入学後は野球部に入部すると同時に北部クラブに入団しました。ポジションは二年生の秋まではファースト、それ以降はライトを守っていました。守備範囲の広いことが私の取り得です。打順は、部活では七番、北部クラブでは二番を打っていました。どちらの打順もランナーを進めることが第一の役割でした。バントが得意です。
 二年生の夏、Bチームで参加した、中日新聞社主催の中日旗で優勝しました。Bチームが優勝したのは中日旗史上初めてのことでした。自分自身にとっても優勝は初めての経験でした。それ以降ますます野球にのめり込んでいく自分を感じていました。
 まとまりのなかったチームもようやく一つにまとまり、万全を期して臨んだ中学最後の夏の総体予選では市内大会・優勝、東三大会・三位と順調に勝ち進んだものの県大会の初戦で逆転負けを喫してしまいました。一つのミスの恐さを実感した試合でした。勝負の厳しさを実感させられた試合でした。
 部活動やクラブチームではすばらしい友人たちに恵まれ、名古屋市や刈谷市、蒲郡市や湖西市などへの遠征試合では、他の地域の選手たちとの交流を通して見聞を広めることもできました。野球以外の面でも多くの貴重な体験をさせて頂いた監督さんやコーチの方々をはじめ、お世話になったたくさんの方々には深く感謝しています。また、毎回練習に気持ちよく送り出してくれた両親にも感謝の気持ちでいっぱいです。
 貴校入学後も野球部に入部したいと思っています。勉強と部活動との両立を心がけ、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、三年間頑張り通し、完全燃焼したいと思っています。夢は高校球児のあこがれの地、甲子園球場でプレーすることです。
 貴校入学後は、文武両道・自主自立を心がけ、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

◆2014年度/TK高等学校/電気・電子工学科
 僕は中学校では勉強と部活動との両立を特に心がけました。
 学習面では、記憶すべきことは反復練習してしっかりと記憶し、理解すべきことは納得のいくまできちんと理解する、ということを身をもって感じ、実践するようにしてから成績が一気に上がりました。
 僕の最も好きな教科は社会科です。歴史の流れや戦争史・文化史、日本や世界各国の地理誌、政治や経済の仕組みを知ることにとても関心があります。また、数学や理科の分野では応用問題を解くことが好きです。一問に長い時間をかけて取り組み、解けた時の喜びはひとしおです。そして、技術や美術の物作りの分野では、物が形をなしていく過程にワクワクし、完成した時は独力で作れたという満足感と達成感とで一杯になります。
 小学校の二年生の時から四年生の時までスイミングスクールに通っていました。五年生の時からは小学校の水泳部に入っていました。中学校に入学し、一度水泳から離れてみようと思い、バスケットボール部に入部しましたが、相性が悪く、一年生の九月に水泳部に転部しました。これと言って際立った成績こそ残せませんでしたが、辛い練習にも一生懸命に取り組みました。また、タイムの測定をするごとに記録が更新されていくことに喜びを感じました。中学校生活最後の大会だった「清川記念エージグループ記録会」で自己ベストを出せたことが最も僕の印象に残っています。水泳を通して得たたくさんのかけがえのない友人達や数々の貴重な経験は私の中学校時代の宝物です。
 貴校入学後も水泳部に入部したいと思っています。勉強と部活動との両立を心がけ、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、三年間頑張り通し、完全燃焼したいと思っています。夢は自己ベストの記録で県大会上位入賞を果たすことです。
 貴校では多くの資格が取れるとうかがっています。貴校在学中にできるだけ多くの資格を取得したいと思っています。また、体験入学に参加させて頂いた際には二足歩行をするロボットを見てとても感動しました。
 貴校入学後は校訓に掲げられているように友人たちと「切磋琢磨」し、努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。

◆2013年度/H高等学校/衛生看護科
私は小学校六年生の時に硬式のテニススクールに通っていました。そして、中学校入学後は迷わずソフトテニス部に入部しました。
 背も小さく体力もなかった入部したての頃、上手くなりたい一心で、ひとりで壁打ちをしたり、素振りをしたりしたことを懐かしく思い出します。
 試合が近づくと選手を選ぶための番手選があります。どうしても選手になりたくて、ペアの子と誘い合って朝練をしたり、休日には自主練をしたりしました。
 私は個人戦に出場していました。私の得意なプレーは、相手のチームの前衛の子の頭上を高いボールを上げて抜き得点するロブというプレーです。試合の前には入念に作戦を立てて試合に臨みました。私たちのペアは練習試合には強いのですが本番に弱いというジンクスがあり、これといって際立った成績を残すことはできせんでしたが、テニスを通じて得たたくさんのかけがえのない友人達や数々の貴重な経験は私の中学校時代の大切な宝物です。
 貴校入学後もソフトテニス部に入部したいと思っています。勉強と部活動との両立を心がけ、常に向上心を持って日々の練習に取り組み、三年間頑張り通し、完全燃焼したいと思っています。夢は県大会で上位入賞を果たすことです。
 また、学校行事にも積極的に参加し、先生方や友人たちとの交流を深め有意義な高校生活を送りたいと思っています。
 中学校二年生の夏休みには校区内にある介護老人保健施設でボランティア活動をしました。車椅子を磨いたり、歌を聞かせてもらったり、一緒におやつを食べながらお年寄りの方々とおしゃべりをしたりしました。別れ際には「明日も来てくれるよね」と言われたり、涙を流して見送ってくれたお年寄りの方々もいて、とても感動しました。この訪問がきっかけとなって私は介護や看護の仕事に関心を持つようになりました。
 人の命に寄り添うことが看護士の仕事だと思っています。患者さんと真摯に向き合い、患者さんのことばに耳を澄ませ、患者さんと丁寧に応接したいと思っています。
 将来は自立した女性として立派な看護士となり、社会に貢献したいと思っています。努力だけは決して惜しまないつもりですのでよろしくお願いいたします。